孔子の受け売り

 

「友有り、遠方より来る」と言っていたのは孔子だったっけ。以前旅行で行った中国庭園に石像と石碑があったんですよね。それを見た時私は遠方より来た側で、その時会いに行った友とはもう疎遠になってしまったなぁ。

まぁそんなことは今となってはどうでもよくて。

今回の連休で、友人がわざわざ関東から来てくれた。たのしからずや。彼女は高校の友人なのだが、高校の時よりも今の方が仲がいい気がする。人の仲とは不思議なものだ。

たしか大学生の頃、激しいファンが多いバンドのライブに誘われてからより距離が縮まったような気がする。音楽が好きだったからという理由で誘われて、知ってる曲なんて片手の指の往復分もないのにのこのこと着いていった。彼女もそこまで詳しいわけではなかったようで、ライブでの周りのファンとの温度差、熱気、圧(物理的なのも含む)に2人は完全に打ちのめされてしまった。フェンスと熱狂的ファンの間で押しつぶされて痛めた肋骨をさすりながら退散し、「すごかったね」「もうこのバンドはいいかな」と話しながらヨロヨロと帰路についたことを覚えている。

これがきっかけになって、自分の好きなアーティストのライブに誘い誘われ、だんだんライブ以外でも会う回数が増えて今に至る。会う頻度ややり取りの回数が多ければ多いほど、2人の間での共通言語は増えるし、タイムリーに聞きたいことや話したいことも増えていく。それゆえにどんどん話し足りなくなるのだ。そんなこんなで今に至り、此度の3泊4日の我が家を宿にした旅行が企画された。

とはいえ色々とあとになって考えてみると、こんなに他人を家に泊めたことがなかった。それゆえ彼女には不自由させた面があるように思えてしまう。しばらく1人で暮らしていると、自分の中に自宅で暮らす上での自分ルールができてしまうことに気づく。家事の効率化だったり、実家からの習慣の名残りだったり、明らかに説明しないと他人には通用しないようなものだ。一人暮らし歴が長ければ長いほどそのルールは根強くなっていって、簡単には曲げられなくなるんだろうなぁ。他人に対しては柔軟でありたいなぁと感じた。

と言いつつも滞在期間はかなり楽しい時間で、いまテレビもついていない静かな部屋でこれを書いているけれど、シーンという効果音の文字が漫画のように浮かび上がってくるような静寂に包まれている。部屋で2人で過ごしている時、お互いに観光疲労していたり朝は眠かったり準備していたりで、ひっきりなしにペラペラ喋っているわけではなかったんだけどな。

私の友人の中には"一人暮らし寂しくて無理勢"が結構いて「よく一人でいられるね、私寂しくて無理〜」とか言われたりする。私、やはり可愛げがないのか、、?とそう言われるたびに思うけれど、ずっと一人でいる部屋はさほど寂しさを感じたことはない。ただ、さっきまで私以外の誰かがいた部屋は結構寂しい。空白を意識してしまう。存在の無さが際立ってしまう。いま、私の部屋はいつもより静かで、いつもよりガランとしていて広い。冷蔵庫の音がハッキリと聞こえる。

まぁだからといってどうすることもなく、一人でなんとなく溜めていたドラマを観て、テキトーにご飯を食べて寝て、明日からは普通に仕事なんですが。またしばらく一人でここで生きていくんですがね。

ただこんなに遠くまで来てくれた友人をこれからも大切にしたいし、疎遠になんか絶対しないぞ、という心持ち。大人になってからの縁は、自分から繋いでいかないと簡単に切れてしまうので。帰った後に静まり返る部屋とも、ちゃんと向き合っていくから。誰かのいる部屋の楽しさも、これからも味わっていきたいから。だからまた、遊びにきてね。他の人もぜひ来てね。

あと、この4日間で気の向くままに飲み食いをしたので、体の重さが測れる板にしばらく乗りたくないぞ、という心持ちでもある。う、運動をせねば、、、、、、